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善仁寺の歴史


宗派:浄土真宗 真宗大谷派
本山:東本願寺(京都)


安和2年(969年)、真言宗寺院、福寿院として創建されました。中世の東国においては阿弥陀如来をしのぐほど聖徳太子信仰がさかんであり、太子の伝記を絵解きにすることが良く行われました。 永正14年(1517年)に当寺で書写された奥書を持つ「聖徳太子伝絵」の写本が発見(慶応義塾大学 三田メディアセンター所蔵)されるに至って、善仁寺周辺の小石川界隈には戦国時代初期まで古風な太子信仰を保った真言門徒がいたことが判明しました。 この本は後に相模の真言宗の学問寺であった金子西明寺(神奈川県大井町)の蔵書となったようです。

 

それから250年ほどたった頃(正確な年月日は不明)、門前を奥州街道が通っておりました。東国を巡歴しておられた親鸞聖人は善仁寺で休憩され、一杯の水をご所望になられました。 ところが井戸が深く水を汲むのに大変苦労していました。この様子をご覧になって、手にしていた杖で地を掘られました。すると清水がこんこんと湧き出しました。 これが現在の極楽水であるという記述があります。

 
この極楽水の奇瑞と親鸞聖人の芳徳に帰した当時の住職、釈賢徴が改宗して浄土真宗になり、名を善仁寺と変えました。 古来小石川屈指の古刹として法燈をかかげ、江戸時代には法厳寺、観応寺(もしくは観窓寺)の寺中があり、文政年間(1818〜1830年)には境内古跡地三千六百三十九坪、内門前長屋を有し、大いに栄えました。 その後、徳川家康公が傳通院を創建され、母君の菩提寺として、その周辺に浄土宗寺院が立ち並び、賑わいの中心は徐々に善仁寺周辺から傳通院周辺へと移っていったようです。
 
以上の記述の大部分は文政年間の書上に拠っており、他の副証が乏しいので、この書上のみで遠い王朝時代(冷泉天皇) の安和年間に創立されたことや、他に類例の多い親鸞聖人奇瑞の物語を事実と信じることはできないが、小石川最古の地図たる正保図(正保年間:1625〜1628年)には、 現在の位置に善仁寺が記されており、また、江戸時代の諸書を参考として、善仁寺が遅くとも室町時代の末には存在していたと認めて差し支えなく、あるいはもっと古い時代までさかのぼらせてもよかろうと思われる、と「小石川区史」には記されています。

 

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